関西単立バプテスト神学校は、創立からおよそ60年の歴史を持つ学校です。
伝道の情熱と祈りに突き動かされ、千里から始まって、神戸の地で200名以上の伝道者を輩出してきました。
その成り立ちをご紹介します。
| 千里時代 1967年4月〜1968年3月 | |
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関西単立バプテスト神学校は、千里ニュータウンバプテスト教会の事務所(吹田市千里山のアパートの三畳間一室)における聖書学校が母体となってスタートしました。 当時、ドン・シスク師によってはじめられた千里ニュータウンバプテスト教会には、宣教一年目にもかかわらず、5人の伝道献身者が与えられました。シスク師は、その青年たちを訓練するために、ロン・ホワイト師、デビッド・マーカム師、リーランド・ラニール師の協力を得て、教会の中で聖書学校を始めました。 学生たちは、その小さな聖書学校に通学し、シスク師とマーカム師は芦屋から、ホワイト師は西宮から、そしてラニール師は神戸から、それぞれの宣教活動をしながら教えに来ていました。先生方は、日本語を学びながら、とても熱心に教えていました。 |
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| 芦屋時代 1967年4月〜1968年3月 | |
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1967年になって、関西のバプテスト国際宣教団(B.I.M.I)の三教会(西宮北口バプテスト教会・千里ニュータウンバプテスト教会・西舞子バプテスト教会)は、ますます祝福され、新たな伝道献身者が起こされていきました。 そして遂に、主の導きにより、芦屋で正式に関西単立バプテスト神学校が開校されることになりました。開校式は、1968年3月31日に西宮北口バプテスト教会(当時駅前の幼稚園の建物を借用)で行われました。 開校当初は、芦屋市川西町の二軒の借家で授業が行われていました。ひとつは、男子寮として、六畳二間と八畳のダイニングのある二戸一の家で、リビングは教室としても利用されていました。もうひとつは、そこから60~70メートルほど離れたところにある一軒家で、神学校の本館となっていました。そこには、台所以外に4つの部屋があり、三人の学生が一つの部屋を、また寮長として奉仕をしてくださったサラ・ルイス宣教師が、もう一つの部屋を、そして、残りの部屋は教室、チャペル、自習室として使っていました。 芦屋に移ってからは、科目も充実し、説教学、伝道学、比較宗教学、牧会学、モーセ五書、解釈学、ギリシャ語、へブル語、ピアノ、コーラス等、現在も神学校で教えられている科目が提供されるようになりました。 1969年には、新たな伝道献身者が与えられ、さらに教室が必要となってきました。そして、もう一軒近くの家を借りることになりましたが、当時としても芦屋に三軒の家を借りることは大変なことでした。神学生のわずかな授業料と寮費では、とても維持できるものではなく、校長のシスク師をはじめ宣教師の先生方が犠牲的にささげてくださっていました。 |
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| そして神戸へ 1969年9月〜 | |
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1969年の新学期が始まってまもなく、素晴らしいニュースが入りました。神戸の方に神学校のための土地と建物が与えられるようになったというのです。そこはニュージーランドから来た、二組の宣教師が会堂と二軒の宣教師館を建て、伝道しておられたのですが、不思議な神の導きで帰国せざるを得なくなり、土地建物を売るようになったという物件でした。まもなくしてシスク師と相手側の話し合いがもたれ、購入することが決まりました。 購入が決定するとシスク師、ホワイト師、マーカム師、ラニール師の4人の先生方は、学生たち全員をご自分の車に乗せて神戸に連れて行ってくださいました。学生たちはどんな建物が与えられているのか興奮していましたが、行ってみて、その大きさ、というより神の奇蹟の御業にただ驚くばかりでした。神学校が始まったばかりで、学校にはまだ何も財産がなかった時であったからです。 「主が私たちのために大いなることをなさったので私たちは喜んだ。」(詩篇126篇3節)がまさに学生たちの心境でした。主は関西単立バプテスト神学校がさらに多くの訓練を受けた伝道者を各地に遣わすためにこのような土地と建物をくださったのです。 しかし、移転当時は、神学校に大きな礼拝堂と二軒の宣教師館があっても、12人の学生たちが住む寮と聖書を学ぶ教室がまだありませんでした。そこでシスク師をはじめ、宣教師の先生方はまた祈り、犠牲的にささげられ、最初の建物が建築されることになりました。工事は神学校の夏休みから始められて、遂に9月の新学期に完成しました。 |
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| 神戸時代 1970年代〜 | |
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神学校は神戸に移転してからも続けて豊かに祝福され、学生は関西だけでなく、北は北海道から南は沖縄まで入学してくるようになりました。 そこでさらに学校の設備を充実させるために新しい校舎と寮が必要になってきました。その頃は諸教会も増え、また経済的にも恵まれてきた時でもありましたので、多くの教会からもまた個人からも献金がささげられて、新校舎と女子寮の建設工事が行われました。 またこの頃は、校舎だけでなく、さまざまな新たな試みが始まった時期でした。神学校機関紙「バプテストラッパ」(編集長:フレイザー師)の発行が始まり、神学校の行事や活動の紹介、聖書に基づく根本的な信仰を伝えるために用いられてきました。 聖書言語や神学などの提供科目も充実し、上級牧会神学科コースも新設されました。また、各地方教会で仕える奉仕者のために一般奉仕者コースが開設されました。さらに同窓会「バプ友会」が発足し、卒業後各地で主に仕えている卒業生の交わり、また支援の輪が広がっていきました。 |
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| アフリカ、ロシア、南アフリカ、アジアの各地にまで 1980年代〜 | |
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卒業生たちの救霊の熱い思いは、さらに燃やされ、教会のない地域に開拓に出かける者、海外に福音を届けるために立ち上がる者が豊かに与えられていきました。 そのような卒業生たちの救霊の熱い思いから、初代委員長フレーザー師のもと「日本単立バプテスト宣教協会(JIMBS)」が設立されました。そして卒業生の働きは、世界中に広がっていきました。また、卒業生だけでなく、学生数もさらに増え、男子寮も女子寮も、そして教室もいっぱいとなりました。 音楽面でも、ホワイト校長の指導のもと、神学校の聖歌隊はクリスマスやバイブルカンファレンスで豊かに用いられ、諸教会の礼拝賛美に素晴らしい影響を与えました。 |
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| 阪神淡路大震災を経て 1990年代〜 | |
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1995年の阪神淡路大震災により、校舎が半壊しましたが、寮に住んでいた学生やスタッフに負傷はありませんでした。翌年、校舎を建て直すためにバプテスト宣教団(BIMI)を母体とする米国からのボランティアチームが数回にわたって来てくださり、また学生や教師、諸教会の兄弟姉妹の奉仕作業も加わって、新しい校舎となりました。 |
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| 理事会の発足 2000年代〜 | |
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こちらは2000年当時の学生の写真です。設立時から神学校には毎年、将来宣教師や牧師になりたいという学生たちが、全国の教会から入学してきました。 校舎の2階中央には教室があり 向かって右側に女子寮、左側に男子寮があり、寮生活をしながら聖書だけでなく、規則正しい生活の訓練も行われました。 神学校を設立し、長い間導いてくださった宣教師の先生方から、これからの神学校のためにとその働きが日本人の手にゆだねられていきました。 理事会が発足し、全国の教会の牧師から理事が選ばれ、運営されるようになりました。 |
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| 諸教会とともに 2010年代〜 | |
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初代校長のドン・シスク博士と名誉校長のロン・ホワイト博士をお迎えし、ミッションカンファレンスを開催しました。 長い間日本で宣教師として働かれ、米国に戻られた後もたびたび日本にお越しくださり、神学校を励ましてくださいました。 毎年クリスマスには、神学校主催の「クリスマス祝会」が行われ、米国から素敵なゲストがお越しくださり、クリスマスコンサートが開かれました。 近隣の教会から多い時には200名を超える参加がありました。 3年あるいは4年の学びを受けた後、所定の試験に合格したものが卒業を認められます。 卒業生は、 日本だけでなく、アフリカ、南米、 ロシア、またアジアの数カ国にまで出て行き、福音のために働いています。 |
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| 施設の充実 2020年代〜 | |
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神学校の伝統として、毎日1時間、神様を礼拝するチャペルが行われてきました。 このチャペルで、学生たちは特別賛美やメッセージをしてきました。 卒業生たちにとって、ここでの失敗は良き経験となっていきます。 1970年から使用してきた校舎は、阪神淡路大震災を経て雨漏りもひどく、老朽化してきました。そのため、新しい場所への移転が検討されましたが、結果的に神様の祝福によって与えられたこの場所で続けることになりました。 このように、関西単立バプテスト神学校は、神様の祝福と守りの中、伝道者育成の使命を果たしてきました。しかし、今も教会がない地域は多く、後継者として、新たな牧師を必要としている教会も多いのです。また、世界では、真の福音を待っている人々も多いのではないでしょうか。 聖書に記されている通り「収穫は多いが、働き手が少ない」のです。 関西単立バプテスト神学校が、本当に必要とされているのは、まさにこれからです。引き続き、お祈りとご支援をよろしくお願いいたします。 |
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